第34回 日米諒解案の入り口にいた「あの人たち」~キリスト教者、外交官、そして赤い回路~

 

こんにちは!Celestoriaです。

 

前回は満州事変は停戦協定で一旦は終戦となったことをお伝えしましたが、結局戦争を止めることはできませんでした。

 

ただし、一直線に戦争に向かうその道の途中には、もうひとつ日米間の緊張緩和と戦争回避を目指した「日米諒解案」と呼ばれる試みがありました。

(wikipediaでは日米交渉で掲載されています ↓ )

 

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日米諒解案は「成立しなかった幻想」として片付けられることが多いですが、資料を追って行くと、「ひょっとして松岡洋右が反対しなければ成立したのでは?」と思わせる側面も見えてきます。

 

今回はこの日米諒解案どのように出てきたか?どのような人々が関与していたのか?といった周辺部分を中心に見ていきたいと思います。

 

🔵日米諒解案の入口にいたキリスト教

 

1940年11月25日、メリノール宣教会のジェームズ・E・ウォルシュ司教とジェームズ・ドラウト神父が来日します。

 

メリノール宣教会は、1911年に創立されたアメリカのカトリック海外宣教会ですが、20世紀前半には中国で活発な宣教を行うなどアジア、中南米、アフリカ・中近東地域の26カ国で宣教を行っていました。中国・日本を重点地域とし、宣教と同時に、アメリ国務省や軍と非公式な接点を持つ「ソフトパワー」的存在だったとされています。

 

彼らは日米関係改善のため、松岡洋右武藤章陸軍省軍務局長といった面々との面談を目的に紹介状を携えて来日しました。その宛先の一人が、元ブラジル大使の澤田節蔵でした。外務省の中心でも、軍人でもない澤田節蔵。それでも近衛文麿に近く、国際協調派として知られた人物です。

 

日米諒解案は、このように最初から公式外交の表舞台ではなく、宗教と民間を介した

「もう一つのルート」からから動き始めていました。

 

🔵澤田節蔵という火消し役?

 

そして澤田節蔵と聞くと、どうしても思い出される人物がいます。澤田廉三です。

 

対華21ヶ条要求。加藤高明外相の下で、日本外交が国際社会から不信のまなざしを向けられたあの交渉に深く関わった人物です。

 

この外交に火をつけたのが澤田廉三で、そののちに、兄の澤田節蔵が今度はその外交の火消しに動く...この不思議な因果関係はいったい何を意味しているのでしょうか?

日米諒解案は、澤田廉三から節蔵の兄弟のリレーで「火つけと後始末」をするストーリーだったのでしょうか?

 

🔵あまり注目されていないリバーサイド会議

 

メリノール宣教会が来日するひと月前の10月17日に、日本では「皇紀2600年奉祝全国キリスト教信徒大会」が青山学院に2万人を集めて開催されました。この流れの中で1941年6月24日には国内33のプロテスタント教派が合同し、日本基督教団が設立されます。そして戦時中はもっぱら戦時体制に貢献します。

 

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それに先立つ1941年4月20日から4月25日にかけて、カリフォルニア州リバーサイドで「日本キリスト教者会議」が開催されています。そこには日本から「遣米平和使節団」が派遣されました。

 

日本側代表は、日本基督教団の設立の報告を行い、日本には信教の自由が保障されており、神社参拝は宗教的ではないと説明したようです。また日本の代表から「アメリカ協会への感謝状」が贈られました。この感謝状は、アメリカがプロテスタント宣教の初期から日本に宣教師を派遣し、日本人をキリスト教信仰に導き、その財政的援助、祈り、励ましを与えてくれたことに対し感謝を表明しています。

 

派遣されたメンバーは小崎道夫賀川豊彦そして河合道など「皇紀2600年奉祝全国キリスト教信徒大会」を企画した主要人物たちでした。

 

Celestoria的には、メリノール宣教会の訪問と皇紀2600年奉祝全国キリスト教信徒大会、そしてそこでの決議で設立した日本基督教団とその米国訪問が見えない糸でつながっているような感覚を覚えます。

 

🔵野村吉三郎と岩畔豪雄という日本側の当事者

 

日米諒解案の日本側当事者は、駐米大使の野村吉三郎となります。

野村は軍人出身ですが、対米強硬論者ではなく、アメリカ社会との対話を重視した人物でした。戦後は公職追放にはなりますがアメリカ対日協議会が何かと便宜を図り日本ビクターの社長にもなります。そしてニューズウィークの記者ハリー・カーンを通じたアレン・ダレスとのつながりから野村がCIAへの協力者であったともいわれています。

 

そして、その背後で実務を担ったのが、あの「岩畔豪雄」でした。岩畔は交渉実務に関わる一方で、日本の戦争遂行能力を冷静に分析していた人物でもありました。「謀略の岩畔」とも呼ばれ、将来の総力戦に向けて、特に経済戦の観点から、軍医部が立ち上げた石井細菌部隊(731部隊)に匹敵する経済謀略部隊となる秋丸機関(正式には「陸軍省戦争経済研究班」)を立ち上げています。

 

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澤田廉三からはじまり澤田節蔵へとつながる澤田兄弟、背後で動くキリスト教のネットワーク、そして実務を担う「謀略の岩畔」。これらの組み合わせはあまりに異質です。

 

🔵民間交渉>外交交渉?松岡洋右が外交ルートで行った交渉

 

日米諒解案の交渉は野村・岩畔ルートで進められました。一方、松岡洋右は民間ルートを忌避し、正規の外交ルートでの交渉を志向します。松岡は訪欧中に、駐ソ米国大使スタインハートと会談し、ルーズベルト大統領への伝言を託しました。松岡案では、東南アジアの安全の保証とアメリカの権益を守る提案を行い、中国の問題と切り離そうと試みました。しかしアメリカ側、特にハル国務長官の興味は三国同盟と日ソ中立条約の無効化にあり、松岡案に大きな関心を引くことはなく、空振りに終わることになります。

 

🔵「全てを把握していた」ハル

 

松岡の反対がありながらも、野村とハルの交渉は続きます。野村は、松岡の修正案では交渉が継続できないと判断し、ハルの同意を取った上で、松岡の修正案を渡しませんでした。しかし、ハルは既に全て内容を把握済みでした。日本側の電報の内容はあの暗号解読「マジック」によって完全に読まれていたのです。

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さらに、ドイツのソ連侵攻、いわゆる「バルバロッサ作戦」についても、ハルを含むアメリカ首脳部は独ソ開戦が近いことを把握していたものと考えられます。後のヴェノナ文章によって、ハルの元にいたアルジャー・ヒス、そしてルーズベルト直結のハリー・デクスター・ホワイトといった人物が情報をコントロールしていたことが明らかになることもこの見方をサポートします。

 

なお、ヴェノナ文章については第28回恐慌で得をした一部の人たち(スターリン編)〜静かな赤い回路と冷戦のプレリュード〜をご覧ください。

 

🔵日米諒解案の「終わり」

 

そして日米諒解案は、1941年7月の南部仏印進駐によって、実質的な意味を失いました。それでも日本側は、松岡の更迭、近衛の再挑戦を通じて、「まだ話せる」と信じ、交渉を継続しようとします。しかし10月、近衛内閣の総辞職とともに、日米諒解案形式的にも終結を迎えます。

 

🔵Celestoria編集後記

 

如何だったでしょうか。

「あれ?日米諒解案の解説ではないの?」

そう感じた方もいらっしゃるかもしれません。

 

今回はblogのタイトルの通り、日米諒解案そのものを評価することを企図して書いた回ではありません。

 

「なぜ、この案が生まれたのか」
「なぜ、宗教者や民間人が入口にいたのか」

 

その前提条件を整理するための、いわば大きな序章です。
ここで扱ったのは「結論」ではなく、「配置」です。

 

というのは、個人的には、日米諒解案は、少なくともアメリカ側にとっては、本気で戦争回避を目指したものというより、戦術的な時間稼ぎだったのではないか、という印象を持っています。

 

もしそうだとすると「皇紀2600年奉祝全国キリスト教信徒大会」をはじめとする一連の大きな仕掛けは、いったい何のためだったのでしょうか。

 

この回で登場した人々や回路は、戦争が終わったあと、戦後日本の語りや統治の場面で、そしてこの後のblogでも、全く別の形で再び現れます。

 

次回は、この一連の大きな仕掛けが、ひょっとすると
戦後の統治体制を見据えた準備の始まりだったのではないか――
そう思ってしまう理由を、
もう少し深掘りしてみたいと思います。

どうぞお楽しみに。