こんにちは、Celestoriaです。
前回は、岩畔豪雄 が主導した「秋丸機関」について取り上げました。
秋丸機関は、「幻のシンクタンク」ではなく、当時の軍中枢がすでに理解していた現実を、数字で確認した装置でした。そして、その背後にいたのが、陸軍戦備課の岩畔豪雄です。
🟢 今回のテーマは「その後」です
今回取り上げたいのは、岩畔豪雄をハブとして形成された、いわゆる「満州系譜」の人脈が、戦後、まったく別の顔で現れてくるというストーリーです。
しかも彼らが再登場する場所は、
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軍でも
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諜報でも
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外交でもなく
電力やテレビといった、私たちの日常に極めて近い分野でした。
いかにも「軍とは無縁」に見える場所で、戦時の回路が別の名前で再起動していく──。
今回はその前段として、まずは戦時中の人脈を、「満州系譜」という言葉を分解しながら、整理しておきたいと思います。
🟢岩畔豪雄というキーステーション
改めて岩畔豪雄ですが、
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陸軍戦備課の中心人物
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情報・経済・産業・謀略を横断
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国策パルプ、大日本再生製紙を主導
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満州・北支・インド独立工作を視野に入れた構想力
を併せ持った人物でした。岩畔を特徴づけるのは、特定分野の専門性ではありません。
軍・財界・情報が交差する地点に、常に立っていたこと。
彼は命令する人でも、前面に立つ人でもない。
しかし、彼を中心に、人と資源と情報が接続されていく。
この意味で岩畔は、駅──キーステーションだったのだと思います。
🟢広義の「満州人材」を四つに分けてみる
岩畔をハブに置き、
戦時の人脈を整理すると、
おおよそ次の四つに分けられます。
🔵満州に「いた」人たち
🔵満州モデルを「数字で検証した人」
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秋丸次郎
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有沢広巳
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企画院調査部
🔵満州には行かなかったが、満州を回していた人
🔵満州モデルを国家制度に「固定化」した人
(なお、満州経済を語るうえで欠かせない鮎川義介 や 昭和通商 は、今回はあえて扱いません。本稿の関心は、巨大な経済主体そのものではなく、それらを横断し、接続した「回路」の側にあるからです。)
🟢まず、物理的に満州に「いた」人から
■ 水野成夫
Wikipediaによれば、東京帝国大学時代から共産主義運動に身を投じ、1927年には日本共産党代表としてコミンテルン極東政治局に派遣され、中国・武漢国民政府の樹立に関わったとされています。1929年にコミンテルンとの離脱を宣言。その後、三井系の王子製紙に対抗する製紙会社を構想し、米糟を媒体に新聞紙から再生紙を作るというアイディアを、南喜一とともに、陸軍の岩畔豪雄に持ち込み、深く結びついていきます。
この流れから生まれたのが、国策パルプ、大日本再生製紙でした。
そして戦後、水野成夫は初代フジテレビ社長として登場します。

■ 安西正夫
満鉄調査部系譜
交通・経済・産業・統治の実務を担当
戦後は森コンツェルン森矗昶(のぶてる)の長女と婚姻した縁で昭和電工の社長になり、その後も政財界とも深く結びついていきます。(兄は東京ガス会長、長男の妻女は上皇后美智子の妹)。
満州国が「巨大な実験国家」と言われる所以は、まさに水野や安西のような人材が現場で制度を回していた点にあります。
🟢次に、「満州系譜」だが、現地には行っていない人物
■ 鹿内信隆
鹿内信隆は、満州への赴任歴も満鉄・満州国官庁にも所属していません。彼の戦時中の拠点は、本邦の陸軍経理部(牛込・若松町)で軍需工場巡回、需給計画と企業折衝でした。
しかし、ここが重要です。扱っていたのは満州を前提にした戦争経済国策パルプ・再生製紙など満州を後背地に想定した企業群。「満州には行っていないが、満州を回していた人」です。ある意味鹿内は、現地の構想や制度を、本邦の企業と実務に“翻訳”する役割を担っていました。
言うまでもなく戦後は水野成夫と共同でフジテレビグループを立ち上げます
🟢3番目は満州モデルを「数字で検証した人」
🔳有沢広巳
前回、有沢広巳が秋丸機関で英米班主査として活躍、一方でゾルゲ事件発覚の後、レフトの工作員では?と疑われたことをお伝えしました。
その有沢は戦後、藤岡由夫、湯川秀樹という物理学者と正力松太郎、石川一郎と共に創立当初からの原子力委員会委員でした。
🔳レフトとメディア、そして電力が絡み合う
物理学者の2人は置いておくとして、なんか同じようなキーワードを持つ人が登場するように感じませんか?レフト、メディア、原子力≒電力...「戦後だから人材難で同じような人が色々絡み合ったんじゃないの?」私は最初はそう思っていました。しかし、ここにWikipediaには出ていない「水野成夫のもう一つの顔」と「昭電疑獄事件」、そしてGHQの「財閥解体の真相」を併せ読むとファインダーから見えてくる景色の焦点が全く違うものと合ってしまいます。
ただでさえ満腹感があるのに、この3つを同時に入れると「食べすぎ」なので(笑)今回は「水野成夫のもう一つの顔」にスポットライトをあてます。
🟢満州での「もう一つの経験」
Wikipediaに載っていない水野成夫のもう一つの顔、それは下山事件最後の証言という本を読んでいて偶然に見つけたものです。(以下は下山事件最後の証言からの引用)
下山事件から四カ月後の昭和二四年一一月二四日、後の日本の電力事業を左右する第一回「電気事業再編成審議会」が開催された。この審議会の実権を握っていたのが終戦連絡事務局次長だった白洲次郎である。白洲は会長の松永安左ヱ門(名古屋の東邦電力創設者)をはじめ、四人の審議会委員の選出を担当した。その委員の一人として白洲が推薦したのが、国策パルプ副社長の水野成夫だった。しかも水野は当時、国鉄の電化を推進する『鉄道電化期成同盟』の委員長を務めていた。 一方、審議会の設置により、「日発」を解体。それまでの電力会社九社が民営化される再編成令が昭和二五年一一月に公布された。これを機に電力業界には莫大な見返り資金が流れ込み、各地でダムの建設ラッシュとなった。
激減する国鉄公共工事。その中で小千谷の発電所は、数少ない大規模発注工事のひとつだった。発電機を開発する設備会社だけでなく、当然のことのように付随する工事を請け負う土木関連企業も蟻のように群がることになる。そこに死活を左右する競合が生まれる。この莫大な利権を事実上取り仕切っていたのが、白州次郎と水野成夫だった。
公的な人物史や企業史を辿ってみても情報は出てきませんが、水野成夫は東京電力の初代社長でもあったようです。ますます私の頭の中はクェスチョンマークが飛び交います。製紙会社のキャリアしか無かったの人がどうして電力事業に?そしてどうしてこの経歴がWikipediaに載っていないの?等々
調べていくと、水野成夫は、満州における電源開発──満州電業に関与し、電力統制の経験を積んでいたことが見えてきます。
また、国策パルプを共に立ち上げた南喜一も、満州国総務庁で満州電気開発の技術的中核を担っていました。製紙と電力。一見すると無関係に見える二つは、満州という「実験国家」の中では、同じ統制構造の中にあったのです。
🟢なぜ、この経歴は語られてこなかったのか?
水野成夫のこうした経歴は、
公式な人物史からは、
ほとんど姿を消しています。
その理由としては、
といった要因が、
重なっていた可能性が考えられるようですが、それにしても...です。
🟢ここから先へ
ここに、昭電疑惑とGHQの財閥解体を見ていくと、今回登場する人物の配置が、より一層違った形で浮き彫りになって行く感じがします。
そこのベースとなるのは、岩畔ステーションをキーとする満州で培われた統制・動員・電源開発の経験をもつ人材、それが水野成夫であり鹿内信隆といった人物たちです。では、この回路は、戦後どこへつながっていったのか。
次回は、昭電疑惑と電力再編、そして下山事件というルーペを通して、この続きを見ていきたいと思います。どうぞお楽しみに!
🔵Celestoria編集後記
いかがだったでしょうか?
フジテレビの 鹿内信隆 と満州の関係については、以前から知られていたこともあり、
「メディアと満州」という接続自体に、それほどの驚きはありませんでした。
しかし、電力? 原子力?という業界にここからに視線が広がるとは想像していませんでした。
さらに、昭電疑獄と下山事件という二つのルーペを重ね、人物関係図を眺めてみると──
「さらに、さらに……」という感覚が湧いてきます。
それにしても、Wikipediaに並ぶ経歴というのは、思っている以上に厚化粧なのだと、改めて感じさせられました。
実業の項目では唯一「製紙会社」が前面に出ており、むしろ文学者的なテイストすら感じられる人物が、白洲次郎 と並んで電力利権の中枢を取り仕切っていた──
少なくとも、教科書的なイメージからは、なかなか想像できない姿です。